10ー12章

 苦悩さん

あなたの患者のことをトリップトウイーズから聞きました。事務所に若い夫婦が来て、彼らは裕福・スマート・外面的・インテリ・あたまのいい懐疑的的な人であり、主流の文学の共産主義士 卒をもつものだと聞いています。これは利用できることです。又、患者の社会的・内的・知力的高慢も利用しなければなりません。このような人間関係に忠誠を向けさせ(表情て・笑顔・音声で始まる)、話すべき時に黙り、黙っているべきときに笑わせるのです。心の信仰は友人との会話の正反対であることに気が付いても、恥をかくことを恐れ、これを認めにくくなります。何かふりをするとふりをしているもののようになるということは問の原則です。あなたの患者も、この連中と同意するふりをしながら、実はj自分の思っていなかった不信・懐疑の態度が自分の立場になるでしょう。

いまの状態が誘惑であることになるべく長く気づかせないように努力して下さい。現代クリスチャン文学の中に世に対しての忠告は見えますが、空虚な娯楽・友人の遊び方・時間の価値についての昔の忠告は、ほとんど聞きません。慎み・正しさ・聖さというものは厳正主義とか古い考えとなづけられ軽視されています。

が、いつかは友達の真の性質がわかってくるでしょう。そのとき、3つの案があります。

1 彼らがいないときだけそれに気が付くように働いてください。彼らがいるときは全ての疑問を消えさせるのです。このように、一生2つの平行している歩みを続けさせるのです。

2 もっと面白い方法があります。2つの歩みが矛盾していることに気づきながら、それを楽しむということがあります。日曜、隣に祈っているはクリスチャンは、毎週世の中で会う人のことを理解していないことを思わせ、一方、優れた友人たちが神を軽蔑したりしてる間は、彼らには霊的世界を理解できないだろうと、思わせるのです。すなわち、実際は両方を売ら要りながら、少しも恥を感じるより、かえって、自分が完全な、バランスがよくとれた、複雑な存在であることを満足させるのです。

3 上記の2つの道がだめでも。あと一つ道が残っています。(良心を無視させることになりますが。)このような関係をもつことは不卒・厳正的であり、かれらに付き合ったりすることは、なんとなく、彼らのためになると、思わせるのです。

もちろん、この新しい関係のため、仕事・お母さんのことを少しづつ忘れさせてください。

 スクリューテープ

苦悩さん、

よい知らせを頂いています。新しい友人か笑うひとであることも。が、人間の笑いということは、全て我々のためになるということではありません。このことについてーー

喜び・楽しみ・冗談・軽薄と分けることができるでしょう。友人や家族が毎日の晩に集まる別なときに最初のものが見えるでしょう。大人の間で冗談の笑いも見えますが、少しなことでも笑うということは、実は別な原因があるということだと思います。(真の原因とは?わかりません。)音楽に見えますが、天国にもあると聞いていますが、我々には少しも役に立ちません。地獄の存在を侮辱するように感じます。

楽しみは喜びに似ているでしょう。遊びという本能からくる情緒的表現でしょう。敵の目的から気をそらせるために利用することができますか、その他、ほとんど価値のないものです。かえって、愛・勇気・満足感など発達させるので好むべきものではありません。

冗談について。下品な冗談を聞き肉欲が引き起こされる人もいれば、性的ことから様々な矛盾した事柄を話す人もいます。あなたの患者がどのグループの人か調べ、彼に知らせないように。また、ユーモアを通して恥をなくすことも行われています。他の人に自分の負担んを負わせるのはいじわるでありながら、そのことを冗談で面白く話し相手に申し訳ないことをしたなどいうことができたら、仕方がないことに変わります。単なる臆病は恥じることでありながら、同じ臆病にオーバーな表情や手振りをつけて話すと面白いと言われます。残酷な行為も恥ですが、悪ふざけと解釈させ、認められることもあります。

軽薄の笑いがいちばん益になるものだと思います。徳の冗談を考えることができるのは、頭のいい人間だけでしょう。徳についての冗談・徳をおかしく見せる冗談は誰でも言うことができます。多くの場合、冗談は実際言われないのですが、真面目な事柄にばかげた面があるように話されるのです。他の笑いにある危険から守り、この笑い方は知性を鈍くし、活用する者の間の愛情を高めません。

スクリューテープ

苦悩さん、

患者の扱い方を聞くと嬉しくなります。頑張ってください。急ぐ必要はありません。彼は敵から離れていますが、今の歩みの向きに気づかないように。

教会に行き続けていることは、このためです。外見的・クリスチャン生活の習慣を守り心の状態が敵から離れることは、我々にとって最高の望みなのです。罪というものを完全に認めず、はっきりと悔い改めず、この頃は、なんとなく調子がよくないと感じるだけになると、我々の務めは軽くなります。この感じを長い期間続けさせ、真の悔い改めまで行かないように気を付けること、ことばで言えないほどの価値があります。

自分の罪を蜘のようにーーはっきりではなくーー感じるとき、敵のことを考えにくくなります。宗教的義務を最初は無視するようになり、いずれか嫌うようになります。

この状態が生活の一部になると誤解で誘惑する必要もなくなります。なぜなら、彼は以前の喜びと満足感をなくすため、他の興味・軽薄・娯楽に心が引かれるようになります。祈り・聖書から気をそらせるためにいい本を与える必要もなくなります。新聞の記事だけで十分になります。時間のむだ使いも、好きな人と興味あることを話せるだけでなく、誰とでも、関心のない物事も話すようになります。この結果、私は一生、すべきものもせず、好むものもなくても、空虚なものに時間を通やすようになると、人はそれを振り払う力がないほど弱くなるのです。

これらは小さな罪に思うかもしれませんが、敵から引き離すものは全て同じように考えてもいいでしょう。かえって、地獄への道、いちばん安全な道は、徐々に暗くなる下り道です。足元は柔らかく、急に曲がらず、道しるべがないようなものです。

スクリューテープ

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