25-27章

 苦悩さん、


あなたの患者はクリスチャンだけなので問題です。信仰の代わりにクリスチャンの危機、クリスチャンと新しい心理学、クリスチャンと信仰の癒し(異言派が行うもの)、クリスチャンと超自然の研究、クリスチャンと菜食主義。

人間の心に日常的ものに不満を感じさせ、もっと目覚ましいものを求めさせる願いを置くのです。これから異端、誤ったカウンセリング、結婚の不貞、気まぐれな友情などが起こるのです。

人間は時間と空間の存在なので、が変化を求め、同時に永続性を願います。敵は両方が満たされるように季節というものを造りました。毎年新しく感じるものでありながら、毎年確かにあるものです。我々は食欲を用い大食をつくりますが、敵は違います。祭日一つ一つに特別な食べ物を楽しむことが出来るようにと、考えています。

我々はこのものも様々な機会に変えていきます。このような楽みはお金が必要なので、結果として貧欲か不幸、あるいは両方を引き起こすことができます。このように日常なものに不満を感じさせるのです。もちろん、ファッション・流行を通してこの気持ちを更に感じさせてください。

今日の思想も日常状態から目をそらせるようにしてください。物質的、生温かい社会の時代は、興奮の危険を考えさせ、一世紀後、人が感情に酔うようになったら、知識のみの危険性を述べさせてください。

最終的に、人間の動機・意志を操ることができるのです。敵は単純の質問をだします。「正しいでしょうか。賢いでしょうか。可能でしょうか。」が、我々は、他の質問をさせ、「社会の一般のうごきに会っているでしょうか。進歩的でしょうか。反動的でしょうか。歴史は同じ方向に進んでいるでしょうか。」混乱させます。なぜなら、このような質問は人間に答えられないものだからです。未来のことをこのように迷っている間、我々は我々の立てた計画の方に物事を曲げることができるのです。

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苦悩さん

あなたの患者が恋してしまったと聞きました。

恐ろしいことに、彼女はただのクリスチャンじゃなく、大したクリスチャンです。全くいやな者です。外見的に聖い、純粋な女性に見えますが、二心な者だと思います。血を見るだけで気絶するように見えても、笑顔だけで溶けます。昔はコロシアムの獅子のえさにすることはできましたが、世は段々悪くなってきているので、残念ながら、今日はそういうことは許されません。敬虔に見えても、このように楽しみを嬉しく味わうこの女性を、敵はなぜころさないのでしょう。

敵は享楽主義者だと思います。聖さ、十字架、犠牲、断食などは、見せかけでしょう。「あなたの右の手には、楽しみがとこしえにあります。」と、聖書に書かれています。睡眠、遊戯、飲食、愛情、祈祷、仕事ーー人間の世界は自由な楽しみでいっぱいです。我々がこれらのことを曲げて初めて我々の利益となるのです。だからと言ってあなたの患者の恋で失敗したことがゆるされるということではありません。このことについては後で話します。

この女性の家族や近所・環境をよく知るように努めてください。なんとなく悪い雰囲気に囲まれています。家族も、週末遊びに行く人も、この不思議な薫りをもっています。愛というものを通して一人一人が相手を通して益を導いているように見えますが、

敵のように彼らはその裏にある秘密のことは話しません。天国のことを、ある著者は、「命だけに囲まれ、音楽でない音はなかった。」と、述べています。

ということで、音楽と静香のことについてですが、我々の父が地獄に下ったとき、この2つのものがないようにしましたメロディー。時間も空間もおとーーやかましい音で満たされるようにしました。天国のメロディーや静かは、おわりにこの音に飲み込まれることでしょう。暴力、こう慢、残酷の昔、いまはまたまた足りませんが、いつかは全てを包むようになるでしょう。

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苦悩さん、

あなたの患者は、この女性の家族を通して他のクリスチャン、あたまのいいクリスチャンにも会うようになっています。彼の生活から霊的事柄を全く取り除くことは不可能だと見えます。そういうことで、我々はその霊的事柄を汚すことに努めなければなりません。光の御使いの原則はご存じですか。世的攻撃がだめなとき、この方法が効果的だと思います。だめになった生徒、偽善者、宗教裁判官、魔法使いなどを用いてみてください。

あなたの患者の友人を見てみると、神学と政治の間の堺線を攻撃するのはよく効くでしょう。

政治について書く「クリスチャン作家」を見てください。歴史上を認め、その後の教会の教えは間違って来たと主張し、結局、全キリスト教と対照的であると行っています。幾年前の世代は歴史上イエスの自由主義、人道主義面を強調し、現在は歴史上イエスで共産主義、革命考えを勧めました。

これらのことを勧めるのは我々の益となります。歴史上イエスは、実際、歴史的でないのです。有ったことはあり、なかったことはないーーそれを変えることはできないのですが、このように歴史が変わったということは、ある事実が極端に強調され、他の事実が無視され、現実的に当てにならないような推測を主張するということです。また、イエスが主張した理論に目を向けさせ、彼自身から・彼の業から、目をそらせるのです。3番目に、敵の存在の代わりに、昔死んだ人間のかげみたいな姿を人の目の前に置き、礼拝というものから離れさせます。4番目に、歴史上イエスという観念がキリスト教の歴史も曲げるからです。歴史上イエスを信じ敵の側に移った者は一人もいません。一つの歴史上事実(復活)と一つ神学的郷里(あがない)により改心されたのです。罪の自覚というものも、偉大な教師に教えられた新しい教えから来たものではなく、昔から心にあった道徳的法律でわかっていたものです。生活の原則は既にクリスチャンになった者に与えられたものです。

あと一つ。キリスト教を通してよい社会をつくると言う考えを勧めてください。敵が真実だからでなく、敵の主張していることを認め得するから。あるクリスチャン作家が言ったように、「このような信仰のみが古い文明が死ぬとき生き残り、新しい文明を誕生させるのです。」このような考えを信じさせるように努めてください。

                                 スクリューテープ 

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